鰐
慶長十一年七月十二日の夜、肥後の海辺において、浜奉行より奇怪なる事ども注進あり。
暴風雨のさなか、雷鳴天地に轟き、海より龍のごときもの天へ昇るを見たりという。また、その折、何ものか岸へ上がる姿も見届けたり。
幸い風雨による大きな損害はなかりしものの、連日の雨により菊池川は大いに増水し、堤は今にも破れんばかりとなれり。
されど、ここに記すは洪水のことにあらず。
漁師ら、水面に奇怪なるものを見るという。初めは浮き石と思われしが、やがて形を現せり。
百姓次郎、そのもの牛一頭をくわえ、川へ引きずり込むを目撃す。その頭は龍に似たり。牛よりなお大きく見えたりという。
二旬のうち牛三頭失われたり。
漁に出る者、そのもの水底より現れ、小舟の周りを巡り、再び深みに没するを幾度も見たり。この日より漁師らは網を打つことをやめたり。
里人ら神職を招き、「我らいかなる罪を犯し、この龍神の怒りを招きたるや。」と恐れ、祈祷を施したる米と酒を川辺へ供え、「願わくは我らの過ちを赦し、来たりしところへ帰り給え。」と祈れり。
その後、二十人余の村人、加藤殿へ訴え出づ。
百姓五郎が娘、弓。齢いまだ六つに満たず。獣に奪われたり。もはや牛のみならず、人命までも失われたるなり。
加藤殿、「童を捜し、その獣をも見出すべし。」と命ぜらる。
二日後、朝日に照らされ、そのもの姿を現せり。
童にあらず。獣なり。
大口を開き、人々を威すがごとく動かず。身には緑の鱗あり。長さ五間ほど。歯は絵巻に描かるる龍のごとし。進まず、退かず。当国に棲む魚・蛇・獣、いずれにも似ず。
やがて夏雨尽きし頃、その獣また姿を消せり。
人々は、あの海龍とともに肥後の浜へ来たり、また同じく帰りしものなりと言い伝えたり。
その後の記録なし。